深淵


第一章


都心にそびえる高層ビルの14階。
そこが男の人生の全てであった。
男の名は増山良夫。
彼は先日、部長という肩書きを手にしたばかりだ。
仕事熱心なサラリーマンで、長年の課長という立場からようやく昇格したのだ。
しかし薄闇の中で念願の部長の椅子に座る良夫の表情は虚ろだった。
デスクに置かれた右腕の下から、離婚届と書かれた紙切れが覗いていた。
昨夜、自宅のテーブルの上に妻が残して行ったものだった。
無情なもので、妻は自分の荷物と一人娘を連れて出て行ったのだ。
こんなありがちなドラマのような事が起こるものなのか。
それが自らの身に起こったという事態を把握するのに丸一日を要した。
上着のポケットから携帯電話を取り出すと、妻の番号を探した。
数回の呼び出し音の後、留守電に繋がった。
良夫は無言で電話を切った。

良夫は椅子にもたれかかり深いため息をついた。
妻の百合がこれほど強引に離婚を決意した理由が全く理解できなかった。
良夫は家族の為に仕事に明け暮れてきた。
部長への昇格も誰より家族が喜んでくれるはずだった。
それなのに祝いの言葉の代わりが、この一枚の紙切れとは。
一度だって家族を裏切るような事はしていないはずだ。
夫はよく働き、妻が家を守り、子供を育てていく。
やがて孫が生まれ、定年を迎えて静かな老後を過ごす。
良夫が思い描いていた平凡だが幸せなビジョンは、崩れ去っていこうとしていた。

不意にドアの方で微かな物音がした。
顔を上げると開かれたドアの向こうを、人影が通り過ぎるのが見えた。
薄闇に溶け込んだ色調の服から、膝から下の足が確認できたが、
不審な事にその人影は、子供ほどの背丈しかなかった。
ドアに駆け寄ると顔だけ出して廊下を覗き込む。
そこには人の姿などなく、足音さえも聞こえなかった。


終電に揺られて自宅に戻ると、暗いリビングの明かりをつける。
いつも良夫が帰宅する頃、妻も娘もすでに寝静まっていた。
良夫は二階へ上がると、寝室のドアをそっと開けた。
そこにあるはずの寝息はなく、静寂が暗闇を強調していた。


三日後、会社で一人残ってパソコンに向っていた良夫の携帯が鳴った。
電話は妻の百合からだった。
「あれ、出してくれた?」
「突然どういう事なんだ」良夫は妻に問い返した。
電話越しで妻が困惑しているのが伝わってきた。
「訳を話すんだ」
少しばかり沈黙の後、百合が静かに口を開いた。
「自分で考えてもくれないのね」
「裏切るつもりか」
吐き捨てるように呟かれたその言葉に、二人の間の空気が凍りつく。
「裏切り?あなた、私達の何を見てきたっていうの?」
良夫は憤慨し、無言で電話を切ると、いきおいよくデスクの引き出しを開けた。
中にあった白い封筒を掴み出すと、中に入っていた薄い紙切れに判を押す。
立ち上がり会社を出ると、歩道の向かいのポストの前に立った。
そして、手にしていた封筒を四角い闇に投げ入れた。

空を睨むような顔で良夫はオフィスに戻ってきた。
その開け放たれたドアの前で、良夫の足が止まった。
彼のデスクの上に、子供が一人、ちょこんと座っている。
黒いTシャツに短パンの子供は、窓の方を向いて足をぶらぶらさせている。
「君、何してるんだ」
振り返った子供は、黒い髪の隙間から良夫を見つめ、笑みを浮かべていた。
「勝手に入っちゃだめじゃないか」
つかつかと歩み寄りながら、良夫はドアを指差して言う。
「出て行きなさい」
子供はデスクからぴょんと飛び下りると、良夫に笑いかけ黙って背を向けた。
良夫はその様子を怪訝な表情で眺めていた。
子供の表情ではないような気がして、恐怖を覚えた。
子供が立ち去ると良夫は椅子にもたれかかる。
ふと、デスクの一番下の引き出しが一つ、薄く開かれている事に気がついた。
普段から鍵を掛けている引き出しに鍵が差さっていた。
(子供のいたずらか)
良夫はその引き出しを開けると中を覗き込んだ。
中は書類の山だった。
その山積みの書類の中程から覗く、オレンジ色のクリアファイルの角に目が止まった。
良夫はそのファイルを引っ張り出す。
中身は三か月近く前の会議で使った書類が十数枚ほど。
良夫はその日の朝の事を思い出していた。
その日、良夫は会議の為にいつもより早く家を出た。
急いで駅までのバスに乗り込もうとする良夫の後ろから、百合の声がした。
振り返ると百合がこちらに駆けてくる。
「あなた、書類忘れたでしょ。ほら」
妻が書類の入ったオレンジ色のファイルを差し出した。
良夫は自分の鞄の中を探ると、すぐに書類を忘れていた事に気づいた。
「ありがとう」百合に一言礼を言うと、バスを待たせていた事に気がつき慌てて乗り込んだ。

「・・・良妻のふりをして」
回想から我に返ると急に良夫は腹立たしくなり、ファイルをごみ箱の中へ放り込んだ。


明くる日、良夫は街の雑踏の中であの子供を見掛けたような気がした。
交差点を渡り人込みの中へ消えていく。
その時一瞬、子供が良夫の方を振り返ったように見えた。

パソコンに向かう良夫に、部下が声をかけた。
「部長」
「・・・うん?」良夫は画面から視線を離さず答える。
「今日、早く片付いたので、帰宅していいですか?」
「ああ、片付いたのなら構わないよ」
部下は照れ臭そうに頭を掻きながら
「すみません。子供が毎晩起きて待ってるものですから。今日くらいは早く帰ってやろうかと」
不意に良夫は部下に視線を移した。
上の空のような表情でひとつ呟く。
「うちも起きて待っているかもな・・・」
「部長も早く帰られた方が」
良夫は視線をパソコン画面に戻す。
「これが片付いたらな」
部下は微笑み軽く頭を下げると、上着を手にして立ち去っていった。


暗い部屋に明かりが灯る。
「ただいま」良夫はリビングのテーブルの上に鞄を置いた。
脱いだスーツの上着をソファーの上に放る。
「これ、そろそろクリーニングに出しておいてくれ」
そう言うと良夫は二階へ上がっていく。
そっと寝室のドアを開けた。
「こんな時間まで起きてちゃだめじゃないか」
良夫はゆっくりベッドに歩み寄る。
「さあ布団に入りなさい」
軽く布団をなでる。
「おやすみ」
静寂の部屋の中、良夫の幸せそうな声だけが、生まれては闇に吸い込まれていった。
カーテンが開かれたままの一階から洩れ出る光が、柔らかく家を包んでいた。


良夫は求め続けてきた理想を、世界の果てで手に入れた。
翌日も良夫はオフィスでパソコンに向かっていた。
背後から視線を感じる。
恐る恐る振り向くと窓の向こうのビルの屋上に、あの子がいた。
(消えろ)
良夫は目を瞑り、心の中で叫んだ。
(消えろ!消えろ!)







良夫は妻に一言礼を言うと、バスを待たせていた事に気づき慌てて乗り込んだ。
閉まりかけた扉の前で百合が叫ぶ。
「中に恵からの手紙も入ってるから!読んでね!」
動き出したバスの中で背を向けている良夫の姿を、目で追いながら百合は何かを呟く。
自宅の方へ向かって歩いていく百合の横を、一人の子供がすれ違った。

オフィスの片隅のごみ箱に、人影が近付いてくる。
清掃員の服装の初老の女性が、溜め息をついてオレンジ色のファイルを手に取る。
中の書類が滑り出した。
床に散らばった書類の間から、赤い折り紙の手作りの封筒が覗いた。
中には折り紙を切り抜いた小さな紙切れが入っていた。
そこには拙い文字がたどたどしく並んでいたのだった。

――ぱぱへ
きょう、めぐみのたんじょうびだから、はやくかえってきてね――




      


第二章


町は白く柔らかい光に包まれている。
真昼の日差しは、彼女の心をざわつかせ急き立てた。
木立に挟まれた道をまっすぐ進むと、古い民家が見えてくる。
ここは歩美の思い出の土地だった。
思い出とは美化されるもので、何かしら道に迷う人々がふいに身を寄せる場所だ。
しかし実際には過去を紐解いていけば苦々しいものも出てくるわけなのだが。
彼女のおかっぱの黒髪と丸い目が幼い少女ような印象を与える。
固い意思を覗かせるその目には、子供が映っていた。
先ほどから民家の軒先に腰掛けて自分に静かな笑みを向けている。
その後ろで小さな無数の花びらが舞った。

「君、この家の子?」
歩美は民家の前で立ち止まり、自分を見つめる子供に声を掛けた。
「うん。そうだよ。」
子供は黒いシャツと短パン姿、少し長めの黒髪に華奢な顔体つきで
一見、男の子か女の子か見分けがつかなかったが
その声からして男の子のようだった。
「そうなんだ。私も昔、ここに住んでいたのよ。」

この古い家の裏手は畑になっていて、その向こうに小さな山があった。
今はもうその畑は駐車場になってしまったが、山の景色だけは変わっていなかった。
幼い頃の歩美は、よく畑を突っ切り山に入って遊んでいた。
遠くから眺める山は日に照らされて、光と陰とが揺らめき蠢いているように見えた。
周囲の家並みの殆どが建て替えてあり、昔の面影からはかけ離れていた。
そんな中で歩美が暮らしていた家と山だけがあの頃から時間を止めていた。
一時の感傷から我に返ると、歩美は自分を見つめ続けていた子供と目が合った。
「この家も随分古いけど、建て替えないのねえ」
ゆっくり家を眺め回すとそう呟く。
「じゃあ私そろそろ行かなきゃ。名前聞いていい?」
「シン」
すぐさま答えが返ってきたことに歩美は少し満足した。
「私は歩美。じゃあバイバイ」
歩美は子供に背を向け来た道を戻り始める。
「うん、またね」
柔らかい日差しの合間を縫って、冷たい風が流れた。
歩美は少しだけ後悔するような気持ちになって、一度も振り返らずに立ち去った。


次の日、歩美はいつものように定時で仕事を終え電車に揺られていた。
携帯メールで次の休みに友人と合う約束を取りながら電車に乗り込み、
一通りやり取りを終えるとイヤホンをつけて音楽を聴き始める。
歩美は一人暮らしの今時のOLといった感じだった。
電車が通過駅のホームに差し掛かる。
その時ふと歩美は視線を感じて顔を上げた。
目の前の電車の窓にシンの姿が映っている。
彼は反対側の扉の前に立ってこちらを向いていた。
歩美は驚いて振り返ったがシンの姿は消えていた。
社内を見渡してもどこにもシンの姿は無い。
(ホームに居たのが見えたのかしら。でも・・・)
歩美は気味が悪くなった。

電車を降りて改札をくぐると、携帯がメールを受信した。
メールは母親からのものだった。
一年前に亡くなった歩美の祖母の家を取り壊す事が決まり、
家の中の物の整理しなきゃならないので来週の休みに手伝いに来て欲しいという内容だった。
メールを読みながら、歩く速度を落としていく歩美を、何人かの人が追い越して行った。



その日からも何度か歩美はシンを見掛けた。
喫茶店から見える歩道橋の上。通勤で通る川沿いの向こう岸の道。駅のホームの反対側。
歩美は何度も声を掛けてみたが、微妙な距離のせいか
シンは歩美に気がつかない様子で歩き去っていく。
歩美が暮らすアパートと、あの古い家とは三駅ほどの距離で
何かの用でこの町に来ている可能性も十分に考えられたが
しかしあまりに頻繁に現れる為に歩美はシンが自分を付けていると確信していた。



休日、歩美は友達との予定を返上して祖母の家に向っていた。
一時間以上電車を乗り継いで着くと、
伯父が出入りしているのが見えた。

戦後からあるその家はボロボロの木造の平屋で、
そこだけタイムスリップしているかのようだった。
周囲の小奇麗な家屋に挟まれたそのボロ家は、変わり果てた周辺のど真ん中で
変わらぬ佇まいを見せる歩美の昔の家と同じような印象を受けた。
祖母の生前もこの家を取り壊して建て替えたらという話は何度か出ていた。
しかし戦争で焼け野原になった所に夫が一生懸命建てた家だから、
と言って祖母は応じようとはしなかった。

「よくまあ今日まで壊れずに来たものだわ・・・」
がたがたの木の扉をなぞりながら呟く歩美に一人の女性が歩み寄ってきた。
「歩美、けっこう早く着いたじゃない」
「来るだけで疲れちゃったよ」

こじんまりした家に入ると真っ先に人形の入った古いショーケースが目に入った。
ショーケースのガラスは所々欠けていて、テープで補修してある。
中には骨董品ともいえる昔の木彫りの人形がいくつか並んでいた。
「懐かしい」
祖母はこの中にあった人形のいくつかを歩美にくれた。
歩美はお祖母ちゃんっ子だった。
何かと忙しかった両親の変わりに、歩美の面倒を見てくれたのは祖母だった。
五歳くらいまでは頻繁に祖母の家に預けられたり、
逆に祖母が歩美の家に泊まりに来る事もしょっちゅうだった。
両親が離婚した時も誰より祖母が歩美を慰めてくれた。
やがて祖母は足が悪くなり歩美が遊びに行くばかりになったが
それも歩美が高校に入った頃から途絶えていった。
祖母が亡くなった時も、歩美は就職活動の真っ只中で、思い出や悲しみに浸る暇もなかった。

祖母亡き後、本格的に取り壊しが決まるまでの間、
近くに住む歩美の伯父夫婦がたまにこの家に来ては、
気持ち程度の掃除はしていたそうで、思ったほど埃まみれではなかった。
歩美は母親と伯父夫婦と一緒に箪笥や本棚の中身を整理していった。
その中身の殆どが捨てるしかないようなものだったのだが。
ショーケースの中の木彫り人形は歩美がもらえる事になった。

一通り片付けが済むと母は昼食の買出しに行き、
伯父の奥さんは用事の為に一足先に帰っていった。
歩美はダンボールに寄りかかって人形を眺めながら休んでいた。
向こうの部屋で伯父が世話しなく動く音が聞こえる。
カーテンを揺らしながら流れ込んでくる風が、火照った体を冷ましていった。
少し寒さを感じた歩美は窓を閉めようと立ち上がる。
縁側の方を向いた彼女の視界に、突然シンの姿が飛び込んできた。
もう少しで悲鳴を上げそうになる。
「こんにちは」
シンはくすくすと笑いながら土足で家に上がり込んでくる。
「ちょっと、靴脱いでよ。汚れるじゃない」
歩美は近づいてくるシンに身じろぎしながら、どうでもいい事を口走っていた。

「どうしてここにいるの?付いてきたの?」
目の前に座り込んだシンに、やっと肝心な質問を投げかける事が出来た。
シンはにっこり笑うと「うん、また話がしたかったから」
歩美は一瞬返答に明け暮れたが、口をついて出たのは深いため息だった。

歩美は座りなおるとダンボールに祖母の衣類を詰め始める。
「何してるの」
「お祖母ちゃんの遺品の整理よ」
シンに何かを問い質すのを諦めた歩美は、淡々と答えた。
「古い家だね」
「そうね、戦後からあるからね」
歩美は生前の祖母が一度だけ戦争について話して聞かせてくれた事を思い出した。
頻繁にここに遊びに来ていた頃の事で、歩美は子供ながらに深く聞き入った。
空襲警報が鳴り響き、火の粉の中を、まだ幼い歩美の母と伯父を連れて逃げ惑った事。
人がすし詰めになった狭い防空壕の中の暑苦しい空気。
戦争が終わっても気の休まる事はなく、アメリカ軍の脅威にさらされ
彼らの乗り回すジープに子供も含め何人もひき逃げされた事なども語ってくれた。
「この家は、焼け野原にお祖父ちゃんが建てたものなんだって」
シンはいつもと変わらぬ表情で、無造作に衣類を詰めながら話す歩美をじっと見つめていた。

箪笥から引っ張り出した捨てるだけの衣類を全てまとめ終わると
手をはたいて天井を仰ぎながら歩美は呟いた。
「必死で生きようとしていたのよね。ただ、生きようと」

その時、外で靴音がした。
同時にシンが立ち上がる。
「僕、帰るよ。」そういって歩美に微笑むと、縁側の方に向った。
歩美はふいに可笑しくなって吹き出した。
「君が話したかった事は何だったのよ?」
シンは軽く縁側から飛び降り振り返ったが、その問いには答えなかった。
「そうだ。これひとつあげるわ」
小走りでシンに歩み寄り、木彫りの古い人形をひとつ差し出した。
「ありがとう」
シンは人形を手にして嬉しそうに微笑むと、軽やかに走り去って行った。
それからほどなくして母親が戻ってきた。
歩美は初めてシンの子供らしい笑顔を見たような気がしていた。



朝靄の中を一人の少年が駆け抜けていく。
うっすら差し込む光が、白く膨張して目が眩む。
さらさらと川の流れる音だけが現実味を帯びていた。
少年の呼吸は少し乱れ、その足は止まった。
そして自分の背後を振り返る。
白く膨張する光の向こうに、溶け込むような白い色の布を纏った人影が見えた。
頭から足先まですっぽりと布に覆われている。
しかし布は人の形に膨らんでいるが、よく見ると中には誰もいない。
少年の横にも、前にも、それは現れる。
ついに少年は完全に囲まれてしまった。

「歩美!」

耳元で聞こえたかに思われた幼い声に、歩美はハッと目を覚ました。
朝だった。
歩美はのそのそとベッドから這い出る。
あれから何日間かシンは歩美の前に姿を現さなかった。

その日の夜は、空で月がほっそりと身を縮めていた。
歩美は珍しく残業で帰りが遅くなっていた。
久しぶりの長時間の仕事に歩美はぐったりして電車に乗り込む。
(何もこんな日じゃなくても)
その日は金曜日で、彼氏の司と食事の約束をしていた。
メールで遅れる事を伝えると、歩美はため息をついた。
ホームに降りると、いつの間にか雨が降っていた。
人気のない改札をくぐり、階段を降りる。
折りたたみの傘を広げると、濡れた道路に出た。
店までは駅から10分ほどだった。
歩美は小走りで道を急いだ。
次第に雨足が強まる。
店まであと少しの交差点に差し掛かると、
歩美は信号待ちをしながら、鞄からハンカチを取り出した。
水を裂く音を立てて自転車がひとつ、歩美の後ろを通り過ぎる。
信号が青に変わると歩美は駆け出した。
その時、真横から歩美は光に包まれた。
劈くような音が響き渡り、歩美の体に衝撃が走る。
体は車のボンネットに乗り上げ、そして地面に叩きつけられた。
歩美は黒く濡れた地面に横たわったまま、痛みで動けなくなった。
泥と水の匂いに混じって血の匂いがした。
そして意識を失っていった。
宙を舞った傘が、濡れた風に流れていった。


窓の外に病院のロビーの明かりが漏れ出している。
雨越しにその明かりを眺める小さな人影があった。
廊下の隅で、若い男がスーツ姿の中年男に向って、なにやら叫んでいる。
やがて納まると、ほどなくして中年の女性が駆けつけてきた。
歩美は救急車で病院に運ばれ、すぐに検査が行われた。
医師が廊下に出てきた。
検査の結果、歩美は打撲と軽い右足の骨折で済んでおり
右頬から首筋にかけての裂傷からの出血がひどかったが、命に別状はなかった。
歩美が地面に叩きつけられた際に、
ちょうどそこに落ちていたガラス片で切ったものだった。
命に別状はないという医師の言葉で、三人の表情には安堵の色が浮かんだ。
検査室から歩美が出てきた。
まだ意識は回復しておらず、あちこちにガーゼをあてられ足には包帯が巻かれていた。



次の日の朝、歩美が目を覚ますと、すぐ目の前に司の顔があった。
歩美は事態を把握できず、ぽかんとした顔つきでいる。
やがて全身が痛い事に気が付く。
司から事故の事を聞いたが、あまりに一瞬の出来事だった為に
歩美は「よく覚えてないけどね」と言って苦笑した。
夜も付き添っているから、という司に歩美は遠慮しようとしたが
不意に見知らぬ部屋に一人きりを想像して気が引け、素直に甘える事にした。
しかし少しの会話でも疲れたのか、日が暮れると歩美はすぐに体の疲れを感じ
早々に眠りに落ちていった。

司は喉の渇きを覚え、飲み物を買いに病室を出た。
薄暗い院内のロビーで一人、缶コーヒーを空ける。
誰かがいる気配を感じた。
顔を上げて肩越しに振り返ると、長い廊下の片隅に男の子が佇んでいた。
十歳くらいの華奢な黒い髪の男の子――シンだった。
司は半信半疑で我が目を疑った。
シンはゆっくり歩き出し、音も無く階段を上がっていく。
二階には歩美の病室がある。
「君・・・ちょっと待って」
立ち上がろうとする司を、シンは一瞬ちらりと見た。

司の脳裏に歩美を見つけた時の現場が蘇った。
歩美から遅れるというメールを受けた司は
時間を潰そうと、店の少し手前にあるコンビニで雑誌を読んでいた。
その司の耳にも、急ブレーキの音は聞こえた。
嫌な予感がして司はコンビニを出ると、駅の方へ向った。
すると目と鼻の先の交差点に、数人の人だかりができていた。
その人だかりの向こうに不自然な位置に止められた軽自動車が見えた。
駆け寄ってみると、その車の少し先の道路脇に倒れている人の姿が見えた。
鼓動が激しくなる。倒れているのは歩美だった。
その脇にスーツ姿の男がしゃがんでいた。
男もまたずぶ濡れになっていた。
バッグの中身が散乱してあちこちに散らばっている。
暗い中で歩美の服の肩の辺りが赤く染まっているのが分かった。
触れて良いのかもわからず、ためらいながら歩美の背中に手を置き
何度も彼女の名を呼んだ。
歩美の背中に置いた手が、小さく上下するのを感じた。
やがて遠くから、雨の音を切り裂いてサイレンが聞こえてきた。
車の男が呼んだ救急車が到着し、歩美は中へ運び込まれる。
司と、車の男も一緒に乗り込んだ。
後部のドアが閉まるその瞬間。
司は救急隊員の肩越しに、一人の男の子の姿を見た。
一瞬だったがはっきり見えた。
男の子はぞっとするくらいの無表情で、こちらを見つめていた。


「待って」
司はシンを追って階段を駆け上がった。
踊り場で追いつくと、とっさに手を伸ばしてシンの腕を掴む。
その瞬間、ジュッと焼け付くような音がした。
シンが苦痛に顔を歪めて飛び退く。
司もまた、その音に驚いて手を離した。
見ると踊り場にしゃがみ込むシンの腕の部分の服が手の形に溶けていて
その下から赤く爛れた皮膚が覗いていた。
シンは少し怯えたような表情で立ち上がると、逃げるように走り去っていった。
司は驚愕の目でシンの後ろ姿と自分の手とを交互に眺めていた。
「・・・あの子・・・」






数日後、ガラス張りのリハビリ室の前で歩美に頭を下げる男がいた。
歩美を撥ねた野田という男だった。
歩美は少しためらう様子を見せたが、軽く会釈すると、松葉杖をつきながら部屋の外へ出てくる。
野田はあれから毎日のように歩美のもとへやってきては、
謝罪の言葉と何かしらの見舞いの品を置いていった。
男の憔悴したような表情に、対応する歩美も困惑した笑顔を浮かべていた。


歩美は相部屋の病室に戻った。
隣の患者のベッドはカーテンが閉められていた。
微かに寝息が聞こえてくる。
壁に松葉杖を立てかけ、歩美はしばらくベッドの上でぼんやりしていた。
ちらっと窓の方を見る。
窓際の壁には鏡が掛かっていた。
歩美は杖を手に取ると歩き出し、鏡の前に立った。
鏡に映る歩美の右頬から首筋にかけて、薄いガーゼが被せられている。
歩美の手がそのガーゼに触れた。
その時、病室のドアを叩く音がした。
歩美は振り返ると、深くため息をつく。
「はい」
歩美は浮かない表情で杖をつきドアへ向った。
開けたドアの先に立っていたのは、シンだった。
歩美はしばし呆気に取られて立ち尽くす。
やがて脱力したような安堵したような表情で言った。
「よくここがわかったわねえ」
「歩美が病院に運ばれるとこ見てたから」
言いながらシンは病室に入り込むと、歩美のベッドの上に飛び乗った。
「静かにしてね。隣、寝てるから」
「うん」
歩美もシンの隣に座った。
「とりあえず野田さんじゃなくて良かったわ」
シンは相変わらずの笑みで歩美を見つめていた。
「私を撥ねた人なんだけどね。毎日のように謝りに来るのよ」
「撥ねたんだから、当然なんじゃない」
歩美はうなだれて
「それはそうだけど、あんな憔悴しきった顔で毎日のように来られてごらんなさいよ。
こっちが悪い事した気分になっちゃうわ」
人事のような笑みを浮かべているシンを歩美は一瞥した。
そしてひとつ伸びをすると
「はあ、私、間違っても死ななくて良かったわ。
自責の念で亡霊みたいになった男に、来る日も来る日も墓の前に立たれてみなさい?
成仏できやしないわよ」
歩美の言葉に、シンはくすくす笑う。
そして窓の外を見やった。
ふわりと風が舞い込むと、清々しい香りがした。
窓のすぐ向こうの樹木から、大きな音を立てて白い花びらが落ちた。
「じゃあ、歩美はどんな人にお墓参りに来てほしい?」
振り向きざまにシンが尋ねた。
「え?」
一瞬、風が冷たくなるのを感じた。
歩美は少しだけ困ったように笑うと、やがてシンの顔を覗き込みながら答えた。
「そうね、それなら私の笑顔を思い出してくれる人かしら。
私がどんな形相で死んでいたとしても」
またひとつ、花びらの落ちる音がした。
シンは笑みを浮かべたまま踵を返すと、ドアの方へ歩き出す。
「シン」
引き止めるように歩美がシンの名を呼んだ。
シンが振り返る。
「あの花びら、ひとつ取って来てくれない?」
窓の外の樹木を指差して言う。
シンは黙ったまま窓に向かうと、ひょいと窓を飛び越えて外に出た。
歩美の目に、屈んで花びらを拾うシンの姿が映る。
再び軽く窓を飛び越え病室に入ると、シンは花びらを一枚、歩美に差し出した。
「はい」
「ありがとう」
歩美はにっこり笑いかけた。
「じゃあ、もう行くね」
歩美に背を向けると、ドアをゆっくり開け、シンは廊下へ出て行った。
一度は閉まりかけたドアが再び開き、シンの笑顔が覗いた。
「・・・さっきの話、司はそうなるね」
ドアが閉められた。
シンが去った後も、歩美はしばらくドアを見つめていた。
手にした思ったよりも肉厚の白い花びらが、ほのかな香りを漂わせていた。





真っ赤な紅葉に注ぐ日差しの色が、鮮やかすぎて目にうるさい。
少年は面倒くさそうに両親の後について山道を歩いていた。
日曜日、少年は両親に半ば強引に紅葉狩りに同行させられていた。
中学に上がったばかりの、家族での外出を嫌がり始める年頃だった。
さらさらと水の流れる音が近づいてくる。
沢に着くと少しの休憩に入った両親を見下ろしながら少年は言った。
「俺、先に行ってる」
「あんまり離れるなよ、司」
しかし彼は両親の目の届く位置に留まるつもりは毛頭なかった。
父親の言葉には答えず、すぐに背を向けた。
落ち葉の敷き詰められた山道を、司は少しふてくされた顔で先を急いだ。
山道は次第に狭くなっていき、司は木々の小枝を掻き分けながら進んだ。
やがて司は道を間違えた事に気が付く。司は青ざめた。
司は来た道を戻り始める。
標識を探しながらしばらく歩いたが、戻っているのかも分からなくなった。
日が落ち辺りが暗くなり始める頃、司はやっと事の重大さに気がついた。
死の予感が脳裏をよぎる。
ほとんど手探りで暗い山の斜面を這いながら、司は祖父の葬式の時の事を思い出した。
木製の箱の中に横たわる、祖父の色の無い顔。
壁の大きな四角い穴に祖父の棺が入れられ、
次に見た時には祖父はガラスケースの中で白い骨になっていた。
「誰か助けて!」
司は叫び声を上げていた。
その時、背後で木の葉を揺らす音がした。
恐る恐る振り返ると、二、三メートル先の木の影に生首が浮かんでいる。
司は言葉を失い、へたり込んだ。
しかし目を凝らしてよく見ると、首の下にはちゃんと体があり、
闇に溶け込む黒い色の服を着ていた。
自分と同い年くらいの少年だった。
その顔が薄く笑みを浮かべている事に気が付くと、司はとっさに、死神が出た、と思った。
混乱した頭で慌てててその場から逃げ出す。
しかし暗い山の斜面で、上下もわからず木の根や岩に足を取られ思うように動けない。
這いつくばりながら振り返ると、自分の跡を少年がついてくるのが見えた。
つまずき転げながら、どれほど走っただろうか。
ふと司は気が付いた。
少年は司を捕まえようとする様子もなく、助けるわけでもなければ、邪魔をするわけでもない。
何を思ったのか司はすばやく足元の小石を掴むと振り返り、少年の方へ放った。
その体を突き抜けるかと思われた小石は、
こつん、という音を立てて少年の胸に当たり、足元に転がった。
司は驚いて立ち尽くした。
少年もまた、突然小石を当てられた意味が分からない様子できょとんとしていた。
(こいつ、ちゃんといる・・・)
直感でそう思った司はぽかんとしたまま、自分を見つめる少年と見合った。
二人は暫くの間、正面きって向き合っていた。
やがて疲労感と眠気が司を襲った。
その時、少年が司に何か問いかけた。
少年が口を聞いた事にも驚いたが、それに対して司も何か答えた。
何を言ったか覚えてはいなかったが、何か背伸びをした感覚だけは覚えている。
司は手探りで木の根元を探り当てると、そこに座り込んだ。
リュックからタオルを取り出すと体に巻いて、じっと夜明けを待った。
そして明くる朝、木陰で眠っていた司は、捜索隊に発見されたのだった。




夕暮れ時に、再び病室のドアが叩かれた。
司は病室に入ると、そっとカーテンを捲った。
歩美の驚いた顔がそこにあった。
イヤホンで音楽を聴いていて、司が入ってきた音には気がつかなかったようだ。
ふたりはたわいもない会話を交わし、笑い合う。
「ねえ司」
やがて歩美は笑顔のまま、切り出した。
「私、顔に傷跡残っちゃうかも」
右頬にあてがわれていたガーゼを自ら剥がして見せた。
そこには太さ一センチくらいの傷が、首筋にかけてついていた。
司は歩美の動作をじっと見つめていたが、やがて微笑むと
「勇ましいな」
「・・・なにそれ」
蛍光灯に照らされて、ふたりはくすくすと笑った。





終章


山の麓に、古い木造の家屋が点々としている小さな村があった。
村のはずれには青々とした丘があって、そこを越えると森が見えてくる。
その鬱蒼とした森の真ん中には古い屋敷があった。
屋敷の近くの木陰で、白い布を纏った人が、何人かで囁き合っている。
やがて大きな音を立て扉が開かれると、勢いよく子供が数人飛び出してきた。
薄い黄の糸で織られた服を身に纏い、互いに声を掛け合う。
裏の小屋から馬を連れ出す子、木材を運び出す子。村に向かう子。歌いながらじゃれあう子。
思い思いに風のように舞っていた。
ある日、山の頂の祭壇に火が焚かれる。
そして子供が一人、白い布の男に連れられていった。

歩美は自宅のベッドの中で目を覚ます。
あれから何日か経って歩美は退院していた。



シンは古い家の庭先にしゃがみ込んでいた。
雲のたち込める空をぼんやりと眺めている。
両腕に顔を埋め小さく丸まった。
次第に空全体が明るくなっていく。
「君達はもう死んだんだよ」
僅かに顔を上げたシンは、視線を下に落としたまま呟いた。
シンの前にぼんやりと人影が現れる。
「流れるものに逆らって、僕に何を求めるの」
周囲の空気が歪んだ。
シンは何かの物音に気がつき、立ち上がると家の裏手に向かった。
駐車場へ入り山の方へ歩いていると、背後から重い足音が響いてきた。
振り返ると斧を手にした男が一人、突進してくる。
シンは駆け出した。
山に入ると、けもの道を這うようにシンは駆け上る。
しかし男の方が早く、どんどんその差は縮まっていく。
シンのすぐ真後ろまで追いつくと斧を振り下ろした。
鈍い音と共に、シンの右腕は肩から削げ落ちた。
シンは斜めに倒れ込んだ。
すばやく起き上がって数歩進むと、男に向き直る。
山の中は風が轟音を立てて吹き荒れていた。
「久しぶりだね。おじさん。
それで僕を殺そうというの?」
シンは左手で右肩を押えながら可笑しそうに笑う。
その傷口からは一滴の血も流れていなかった。
一瞬、男の顔が青ざめる。
男にもシンを殺す事など出来ない事は分かっていた。
それでも男はシンを睨み付けたまま、ゆっくりとシンに近づき、斧を振り上げた。
「もう俺に付き纏うな!」
その瞬間に男の体が横に突き飛ばされた。
笑みを浮かべたまま、男の動作を眺めていたシンの表情が変わった。
山道に叩きつけられた男の体の上に、続けざま歩美の体が倒れ込む。
歩美は飛び退き立ち上がると、シンの左手を引っ掴み走り出した。
一度きり振り返ると、男も立ち上がっていて呆然とした様子でこちらを見ていた。

二人は山の中、道なき道を一度も立ち止まらずに駆け下りた。
突然視界が開かれ、すぐ真下に駐車場が見えた。
そこで足を止めると、歩美は後ろを振り返った。
ぜえぜえと喉が鳴っている。
体を強張らせしばらく耳を澄ましていたが、男が追ってくる気配は無かった。
やがて静寂に包まれた事を確認すると、歩美はその場に座り込んだ。
「歩美」
シンも座り込み、歩美の目を覗き込んで尋ねた。
「どうして来たの?」
歩美はシンを見つめていたが、幾分息が整うと駐車場の方に目をやった。
眼下に見える駐車場をぐるりと見渡す。
数台の車とバイクが、点々と止められている。
ここは歩美が昔暮らした家の真裏の、かつては畑だった場所だ。
そして再びシンに視線を戻して静かな声で言った。
「あなたを知っているから。」



十五年前。

歩美はよく小学校から帰ると、家の裏手の畑を突っ切り山へ入って遊んでいた。
けもの道のような山道の脇に錆びれたアスレチックがある。
歩美はそれを通り過ぎざまに弄び、あっという間に頂上へやってくる。
遊びといっても、頂上の片隅にそびえる名前も知らない木に登っては、
眼下で遊ぶ子供達を見下ろしながら歌を口ずさむだけが多かった。
ある日、いつものように畑を通ろうとすると子供の騒ぎ声が聞こえた。
近寄ってみると騒いでいるのは三、四人の同級生達で、小石を手にして
畑の真ん中に立つ樹木の枝に架けられた大きな蜘蛛の巣を指差している。
蜘蛛の巣には、黒と黄の縞々模様の蜘蛛がいた。
見るとその斜め右下に紋白蝶が貼りついてもがいている。
同級生達は蝶を助け出す為に、小石を投げて巣を壊そうとしていたのだった。
これまでの歩美もそういった事には加わっていた。
しかし何故かこの時、歩美の中で何かが小さく弾けた。
「やめようよ。」
同級生達の手が止まり、一斉に視線が歩美に注がれた。
歩美は蜘蛛の巣を見据えたまま「このままがいいよ。」
同級生達は歩美と蜘蛛の巣を一度だけ交互に見ると、移り気早く去って行った。
歩美だけが自分の感覚について行けずに留まっていた。
背後で誰かが塀を飛び越える音がした。
びくっとして振り返るとそこには幾分年上に見える男の子の姿があった。
伸び放題にしたような、少し長めの黒い前髪の隙間から、その目は歩美を見つめていた。
口元が少し笑っているように見える。
歩美は急に恥ずかしくなって山の方へ走り出した。
一度きり振り返ると、男の子は同じ位置に立ったまま歩美を見ているのが確認できた。



静かな口調で話し終わると、歩美はシンを見下ろした。
シンはやはり小さな子供だった。
「僕を知っているんだね」
「私達はみんな知っているわ」

あの時のシンと、今目の前にいるシンとは別物だ。
しかし同時に同じものでもあった。
シンはずっと歩美を待っていたのだ。
というよりは、”誰か”を待っていたのかもしれない。
とめどなく流れる時間の中で。


雲間から差し込む光の中に、微かな気配を感じる。
いくつもいくつも溢れ出るように。
やがてシンの目に、空っぽの布の人影が映った。
あれはシンが引き裂いてきた光の欠片達だ。
シンに作られ、そこから再びシンが生まれた。
肩の傷口が疼く。
光の粒子が肉を裂いて体に入り込んでくるように感じられ、
少しずつ体が重くなっていく。
シンは立っているのも困難になり歩美にもたれかかった。
その時、歩美は思いもよらない言葉を口走った。
「あれはただの抜け殻よ」
その言葉にシンが驚きの表情を浮かべた。
「誰もが破り続けていかなきゃならない殻なの」
その言葉と同時に気配はかき消された。
一瞬の白昼夢だったかのように。


遠くで電車の走る音が聞こえる。
「彼らと共にある事が、僕という存在の絶対条件だったんだ」
沈黙を裂いて、シンが裏山の方を振り返りながら呟いた。
歩美も山の方を振り返り、そして首を振った。
「彼はあのままで、それでいいのよ」
シンは歩美の体に寄り添いながら小さく笑った。

風が木の葉を揺らす。
見下ろす民家のベランダで、洗濯物がはためいた。
その家の脇のゴミ置き場で、カラスが一匹、袋を突いていた。
町も音も全てがくっきりと鮮やかだった。
「一緒に行きましょ」
歩美は深く息を吸うとシンの手を取った。
シンは歩美を見上げ、ゆっくり頷く。
「うん」
歩美の手の平が焼け付くような感触だった。
「だから、ひとつひとつ僕を取り込んでいっておくれ。
僕が君を取り込まないように・・・」
シンは歩美の手を強く握り締める。
歩美はシンの手を握ったまま、じっと前を見つめて再び歩き出す。


日の傾き始めた小道を並んで歩きながら、
シンの体は少しずつ空(くう)に流れ出していった。









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ここまで読んでくださってありがとうございます。
私がテーマを、旦那が人物構成を考えた夫婦合作の小説です。
言葉にするのは難しいのですが、テーマにしたのはいたって単純なもの。
死や虚無と隣り合わせにある心の、限りない「可能性」です。
くどさを失くす為に童話風に書いてみました。
登場人物はみんな、心の欠片のようなものです。

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